社会 内田也哉子さん 樹木希林さんと母娘で共著 学校行けなくても生きて

「9月1日 母からのバトン」を手に、昨年9月1日の樹木さんの様子を話す内田也哉子さん


「死(し)なないで、ね……どうか、生(い)きてください……」

 

 女優 (じょゆう)の樹木希林(きききりん)さんは昨年(さくねん)9月(がつ)1日(ついたち)、入院(にゅういん)していた病室(びょうしつ)から窓(まど)の外(そと)に向(む)かって、繰(く)り返(かえ)し語(かた)りかけていました。夏休(なつやす)み明(あ)けの9月(がつ)1日(ついたち)に自(みずか)ら命(いのち)を絶(た)ってしまう子(こ)どもたちを、樹木(きき)さんは自分(じぶん)の死(し)の直前(ちょくぜん)まで気(き)にかけていました。その思(おも)いを娘(むすめ)の内田也哉子(うちだややこ)さんが受(う)け継(つ)ぎ、母(はは)娘(むすめ)で子(こ)どもたちに「生(い)きてください」と呼(よ)びかけています。

 樹木(きき)さんは映画(えいが)やテレビなどで活躍(かつやく)し、昨年(さくねん)9月(がつ)15日(にち)に75歳(さい)で亡(な)くなりました。61歳(さい)で乳(にゅう)がんにかかり、70歳(さい)の時(とき)にがんの全身(ぜんしん)転移(てんい)を公表(こうひょう)。昨年(さくねん)夏なつは骨折(こっせつ)で入院(にゅういん)していました。

 「ずっと入院(にゅういん)していると、日(ひ)にちが分(わ)からなくなりますが、母(はは)は9月(がつ)1日(ついたち)をよく分(わ)かっていました」と内田(うちだ)さん。樹木(きき)さんの「死(し)なないで」の言葉(ことば)を最初(さいしょ)に聞(き)いたときは、何(なん)のことを言(い)っているのか分(わ)からず、びっくりしたそうです。

 自(みずか)ら命(いのち)を絶(た)つ子(こ)どもが最(もっと)も多(おお)いのは、日付別(ひづけべつ)で9月(がつ)1日(ついたち)だと2015年(ねん)、内閣府(ないかくふ)が発表(はっぴょう)しました。その年(とし)の「登校拒否(とうこうきょひ)・不登校(ふとうこう)を考(かんがえ)る夏(なつ)の全国合宿(ぜんこくがっしゅく)」で話(はなし)をしたことをきっかけに、樹木(きき)さんは「9月(がつ)1日(ついたち)」を意識(いしきし)始(はじ)めたようです。

樹木希林さん=東京都内の自宅で2016年1月


「自分(じぶん)が死(し)に向(む)かっていく目(め)の前(まえ)で、未来(みらい)のある子(こ)どもが自分(じぶん)で命(いのち)を絶(た)つ理不尽(りふじん)さ。母(はは)の心(こころ)のどこかに『9月(がつ)1日(ついたち)』はあったのでしょう」と、内田(うちだ)さんは1年前(ねんまえ)を振(ふ)り返(かえ)ります。

 病気(びょうき)で気力(きりょく)も体力(たいりょく)なかった樹木(きき)さんの切実(せつじつ)思(おも)いを目(ま)当(あ)たりにして、内田(うちだ)さんも現状(げんじょう)を知(し)りたいという気持(きもち)が強(つよ)くなりました。母(はは)からバトンを受(う)け取(と)ったと感(かん)じ、共作(きょうさく)「9月(がつ)1日(ついたち) 母(はは)からのバトン」(ポプラ社(しゃ))にまとめました。14年(ねん)に「不登校新聞(ふとうこうしんぶん)」が行(おこな)った樹木(きき)さんのインタビューや、翌年(よくねん)の全国合宿(ぜんこくがっしゅく)での話(はなし)のほか、内田(うちだ)さんの不登校経験者(ふとうこうけいけんしゃ)をはじめとする4人(にん)へのインタビューが盛(も)り込(こ)まれています。


 内田(うちだ)さんは自(みずか)らの経験(けいけん)や母(はは)の言葉(ことば)を胸(むね)に「学校(がっこう)に行(い)けずに引(ひ)きこもってしまう人(ひと)は、やわらかい感受性(かんじゅせい)を持(も)った人(ひと)。悩(なや)むことができるのはすごい才能(さいのう)です。長(なが)く続(つづ)くかもしれませんが、暗闇(くらやみ)が深(ふか)ければ深(ふか)いほど、抜(ぬ)け出(だ)すと無敵(むてき)、強(つよ)くなります」と自分(じぶん)を追(お)い詰(つ)めないように願(ねが)っています。


この世(よ)に絶対(ぜったい)はない 闇(やみ)は永遠(えいえん)に続(つづ)かない


内田也哉子(うちだややこ)さんは幼稚園(ようちえん)から小学(しょうがく)6年(ねん)まで、インターナショナルスクールに通(かよ)いました。6年生(ねんせい)が終(お)わるころ「日本(にっぽん)の学校(がっこう)に行(い)ってみたい」と数(すう)か月(げつ)間(かん)、地元(じもと)の公立小学校(こうりつしょうがっこう)に入(はい)りました。

 友達(ともだち)ができないまま数(すう)か月(げつ)がたちました。毎日(まいにち)泣(な)いて家(いえ)に帰(かえ)っていたそうです。母親(ははおや)の樹木希林(きききりん)さんからは「やめればいいじゃない」と言(い)われました。でも、内田(うちだ)さんは学校(がっこう)に通(かよ)いました。「責任(せきにん)を取(と)るのは自分(じぶん)。学校(がっこう)に通(かよ)い続(つづ)けることが、自分(じぶん)で納得(なっとく)できること」と考(かんが)えていたそうです。卒業(そつぎょう)まで数(すう)か月(げつ)だったことも救(すく)いだったそうです。

 嫌(いや)だったらインターナショナルスクールを受(う)け直(なお)そうという気持(きも)ちで、公立中学(こうりつちゅうがく)にそのまま進学(しんがく)しました。すると、内田(うちだ)さんをいじめていた女(おんな)の子(こ)から「名前(なまえ)、なんていうの?」と声(こえ)をかけられました。それがきっかけで仲良(なかよ)くなり、中学校(ちゅうがっこう)に3年間(ねんかん)、通(かよ)いました。

 樹木(きき)さんはよく、こう言(い)っていたそうです。「人間(にんげん)、生(い)きていれば、いろいろな大変(たいへん)なことがある。苦(くる)しみも悲(かな)しみも平等(びょうどう)」「人間(にんげん)は善悪(ぜんあく)の存在(そんざい)。善(ぜん)だけなら、世(よ)の中(なか)おもしろくない」。だから「想像力(そうぞうりょく)を使(つか)って、安心(あんしん)できる場(ば)をどう作(つ)くるか。それぞれ人(ひと)にはリズムがあるから、絶対(ぜったい)にこう、という正解(せいかい)はない」とも。

 内田(うちだ)さんは言いいます。「母(はは)から学(まな)んだのは、この世(よ)に絶対(ぜったい)はないということ。闇(やみ)は永遠(えいえん)に続(つづ)きません」。学校(がっこう)に行(い)けなくなっても、たくさんのいろいろな選択肢(せんたくし)があります。「自分(じぶん)のエネルギーをどこに注(そそ)ぐか。楽(たの)しくなるものを一(ひと)つでも見(み)つけてください。自分(じぶん)の人生(じんせい)は終(お)わり、と決(き)めつけることもない。いつか自分(じぶん)らしさを取(と)り戻(もど)せます」

 著書(ちょしょ)には樹木(きき)さんもこんな言葉(ことば)を残(のこ)しています。「必(かなら)ず必要(ひつよう)とされているものに出会(であ)うから。そこまでは、ずーっといてよ。ぷらぷらと」


内田也哉子(うちだややこ)さんプロフィル

 1976年(ねん)東京(とうきょう)生(う)まれ。文章家(ぶんしょうか)。夫(お)っとは俳優(はいゆう)の本木雅弘(もときまさひろ)さん。大学生(だいがくせい)の長男(ちょうなん)(21)、大学生(だいがくせい)の長女(ちょうじょ)(19)、小学(しょうがく)4年(ねん)の次男(じなん)(9)がいる。翻訳(ほんやく)絵本(えほん)に「たいせつなこと」(フレーベル館(かん))など。

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