私にも、「パリピ」とか「婚活」とか「キラキラ系Instagram」とかを見て、そちらが主流のように見えて、疎外されたように感じる瞬間がある。
けれど、"不良"少年たちの実像が、しばしば、家や学校に居場所をなくして仕方なく繁華街にいるだけであることが伝えられるように、もし彼らの中にも誰かとのつながりを求めている「はみ出し者」がいるとしたら、一体どうだろうか。
孤独を恐れた過去の私や、今「ひとり」に見えて周囲に支えられている私と、根本的に何が違うのだろう、と思う。
社会的に排除されている人が、本当は「パリピ」の中にいてもおかしくない。
そして、一見「パリピ」に見えている彼らの中に孤独を抱えてつながりを求めている人がいるとしたら、むしろ「ひとり」でいられる人の方がよほど、環境や社会の変化に適応できているとも言える。
だから、「パリピ/ぼっち」と互いを指差しあうことに、多分意味はないだろう。
みんな、多かれ少なかれ、誰かとのつながりの中で生きている。
ひとりじゃない。 #だからひとりが好き。
だから私は、今日から始まる「#だからひとりが好き」というカテゴリに、期待感と恐れの両方を感じている。
それは、「結果的に誰かを排除することに繋がってしまうのではないか」という個人的なフラッシュバックでもある。
「ひとり」になるのが怖かったら、決して「ひとり」が好きとはいえない。
そして、そういう人たちに向けてむやみに「ひとり」を強要するのは、してはいけないことだと思う。
少なくとも、中学生の頃の私に「ひとり」を強要したら、彼女はきっと追い詰められてしまっていただろうから。
しかしそれと同時に、いつかは誰もが「ひとり」を楽しめればいいな、とも強く願っている。
世の中には、いま自分が孤独で辛いと感じてしまっている人もきっとたくさんいるだろう。
精神的に追い詰められている人も、セーフティネットぎりぎりのところで声をあげられないまま立ちすくんでいる人もいると思う。自分を振り返っても、そうだった。
既にある「つながり」に気づけていない人は、その存在に気づいて焦りを取り除ければいいし、本当に社会的な助けを求めている人は、1秒でも早くその状態から抜け出せるようにしたい。
逆説的だけど、私はこの「#だからひとりが好き」カテゴリを通して、やんわりとした、でも確かな「つながり」が広がっていく社会を目指したいと思う。
「ひとりじゃないから、ひとりでも大丈夫」と胸を張って言えるようなコンテンツが、このページからたくさん飛び立って人々の間のクッションになる。そんな役割を少しでも果たせるのであれば、ハフポストに関わる「ひとり」として、それ以上に嬉しいことはない。
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