日テレ24時間テレビがやっぱりおかしい

障害者の姿を映し出して感動を押し付ける「感動ポルノ」という言葉がある。今年も放映された日本テレビのチャリティー番組「24時間テレビ」の直後には、この言葉がネットの検索キーワードで急上昇したという。障害者蔑視や商業目的との批判が止まない日テレの看板番組。いつもやり玉に挙がるのはなぜか。


「パーフェクトヒューマン」を踊らされる衝撃


日テレは正気か? 障害者の「見世物小屋」と化した24時間テレビ


藤本貴之(東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者)

 1978年に日本テレビ開局25年記念番組として始まった「24時間テレビ」は、我が国におけるチャリティー番組の代名詞でありつつも、これまでも少なからず批判をされたり、揶揄・嫌悪の対象になってきた。

 「24時間テレビ」に同情すべき点としては、あらゆるチャリティー・コンテンツがもっている「チャリティー(といった批判できない対象)を利用したビジネス」への不信感を、チャリティーを標榜した番組の代表として、集中的に受けていることかもしれない。

 一方で、ボランティや福祉などをテーマにしたテレビ番組は、近年「24時間テレビ」以外にも多数存在している。必ずしも、その全てが批判や嫌悪の対象になっていないことを考えれば、「24時間テレビ」の制作方法や番組のあり方自体にも、少なからぬ問題があることは間違いない。本稿では、「24時間テレビ」が炎上している理由について、メディア産業の現実を踏まえつつ、考察したい。

日本テレビ25周年記念・チャリティーテレソン「24時間テレビ・愛は地球を救う」 左から番組キャスターの大橋巨泉、チャリティーパーソナリティーの大竹しのぶ、萩本欽一=1978年、麹町


チャリティーコンテンツへの不信感

 「24時間テレビ」に限らず、チャリティー・コンテンツは、人に感動や共感、応援を与えるものの、ともすれば「善意の商業利用ではないか?」「本当にチャリティーなのか?」といった不信感を持たれる諸刃の刃型コンテンツだ。そのような猜疑の目は出演する側、タレントや芸能人の中にも存在し、「24時間テレビ」からの出演依頼を断る有名芸能人も少なくないと言われる。

 ましてや「24時間テレビ」は、民放テレビ局という営利企業が販売する「商品」である。ボランティアではない。これが厳しい疑いの目で見られてしまうは止むをえない。「チャリティー」をテーマとしつつも、それはあくまでも「テーマ」であって、番組制作、放送、広告などがチャリティーではないことは誰の目にも明らかであるからだ。

 しかしながら、チャリティーをテーマとしている「商品」ということだけで、それを「障害者の商業利用」だとか、「感動ポルノ」などと一概に批判はできない。テレビに限らず、出版でもイベントでも、チャリティーや福祉、環境問題や障害者などをテーマにしたイベントは多々あるからだ。すべての構成要素や人材が完全なボランティアと言い切れるようなものの方が少ないだろう。

 むしろ、メディアにおけるチャリティー・コンテンツは、商業利用の側面がある一方で、啓蒙活動としての価値に大きな意味がある。メディアを介して広がるチャリティーやボランティアの理解やそこから始まるムーヴメントは多い。無批判に受け入れるべきではないものの、一概に批判ばかりすべきものでもないのだ。

 よって、「見世物小屋」や、行為そのものへの理解が十分ではない知的障害者に対して「面白いことをやらせる」というような明らかな人権侵害は論外であるものの、そのチャリティー・コンテンツ自体が嫌悪されるか(批判)、好意を持たれるか(容認)は、対象をどのように扱ってるのか、という問題になる。


「24時テレビ」が批判される2つの要因

 「24時間テレビ」に対する批判や嫌悪は、今に始まったことではない。しかし、それが昨今のように、急激に表面化し、国民的な議論へと発展してしまう背景にあるのは、「一億総ネット評論家時代」ともいえる社会状況だ。

 従来であれば、ゴシップレベルの批判や個人的なオピニオンやメッセージで終わっていたものが、近年ではSNSを使い、誰もが自分の主張を不特定多数に発信できるようになった。決して少なくない頻度で、無名の個人(でしかも匿名)の意見が、社会性をもったオピニオンとして拡散されてしまう。

日本テレビ系「24時間テレビ」で司会をする。 アナウンサーの徳光和夫=1998年

近年急速に「24時間テレビ」への批判がネット炎上を着火点として加速している背景には、大きく2つの要因がある。

 まずひとつ目は、上述した「チャリティー標榜ビジネス」に対する嫌悪や不信感だ。欧米では、ハリウッドスターなどが無償でチャリティーイベントに参加するのは常識だ。一方で、「24時間テレビ」では、出演者にはしっかりとギャラが支払われる。もちろん、高額ギャラの人気タレントたちが出演することで、視聴率を上げ、話題性が高めれば、広告価値が高まり、それは巨額の広告収益を生む。それがテレビ局および周辺企業の売り上げとなるわけだが、この構造に対して不信感や嫌悪感は持ってしまう人は多い。

 もちろん、福祉やチャリティーといったことを国民的な関心として盛り上げて行くために、行政や関係団体が巨額の広報費用、啓蒙活動費を利用していることを考えれば、「24時間テレビ」で得られる収益や、そこでやり取りされる巨額なギャラなどは、チャリティーや障害者問題の啓蒙活動のための「必要経費の範囲内」と言えるのかもしれない。よって、ギャランティの有無や商業性の大小に関しては、非常に難しい問題をはらんでおり、一概に明言できないのが実情だ。

よって、「24時間テレビ」がチャリティーの理解を深めるための啓蒙活動として価値を持ち、そのための広報費、啓蒙活動費として「24時間テレビというビジネス」が許容できるなら、それほど大きな問題は起きない。しかし、実際には大きな騒動として議論され、デマや揚げ足取りを含めた様々な批判が飛びかっている。その理由は、視聴者が「24時間テレビ」に対してチャリティーや福祉の啓蒙番組としての価値や意義を見いだせていない、ということにあるのではないだろうか。

 2007年の「24時間テレビ」チャリティーマラソンにおいて、ギャラを全額寄付したと言われている欽ちゃんこと萩本欽一氏のエピソードが、番組における美談・逸話として有名である。しかし、よく考えれば、これが美談・逸話としてあつかわれること自体が「24時間テレビ」の特殊性を示している。

 そして2つ目が「一億総ネット評論家時代」の確立と成熟だ。従来であれば、「放送しっぱなし」でも許されたテレビ番組。しかし今日、チャリティー番組に限らず、あらゆる番組が、少数のコア視聴者たちによって事細かに検証され、その問題点や疑問点がエビデンスや比較対象資料までつけて分析され、ブログなどで即座に公開され、SNSで拡散されてゆく。その真偽はさておき、意図的な表現改ざんなどの編集を繰り返しつつ、無限に広がるという評論フローが完成している。

 当初はアンダーグラウンドな「暴露話」「都市伝説」レベルであったネット評論も、2000年代に入り、一定の検証性や客観性を帯び、リアル社会にも影響を及ぼすようになったものも登場するようになった。

 例えば、2002年4月に放送されたNHKスペシャル「奇跡の詩人」は、そういった動きの最初期の事例である。「奇跡の詩人」は、重度の脳障害をもつ11歳の少年が、民間療法ドーマン法のよって驚異の能力を発揮するに至り、文字盤を利用して複雑なコミュニケーションをし、著書を執筆・出版するなど、健常者以上の才能を開花させている状況を取り上げたドキュメンタリーである。

 しかし、放送直後から、ネットを中心に疑義が噴出した。母親が操作する文字盤を少年が指差すことで文章を作る・・・としているが、よそ見をしている時でも、文字盤を指差す(指を動かされている)などが事細かに検証された。その結果、製作責任者が釈明放送をするにまで至った騒動だ。

 近年でいえば、2014年に起きた小保方晴子氏を中心とした「STAP細胞騒動」がある。この時は、匿名のネット民(だが、おそらく専門に精通した研究者)により、ネイチャー誌に掲載された論文から彼女の博士論文の検証がなされ、論文の取り下げはもとより、博士論文の取り消しにまで発展した。

もちろん、2015年の「東京五輪エンブレム騒動」も同様だ。佐野研二郎氏によってデザインでされた東京五輪のエンブレムの類似指摘に端を発し、その後、続々と五輪エンブレム以外のあらゆるデザイン物に対して「パクリ」指摘が相次いだ。その細かな検証結果は、ネットで拡散され、前代未聞となる五輪エンブレムの取り下げ、再公募となったことは記憶に新しい。(ことの経緯、炎上過程については、拙著「だからデザイナーは炎上する」中公新書ラクレを参照)

 これらの全ては、「一億総ネット評論家時代」でなければ起き得ない騒動だろう。これまでも同じような検証者はいただろうが、それを不特定数の表明する手段も、拡散させる方法もなかったからだ。言い換えれば、無限に存在するネット上の情報やコンテンツがあれば、揚げ足取りでも、自分の検証や理論を立証させるエビデンスを収集することは容易だ。対象者を貶め、攻撃するエビデンスとは、理論的検証能力というよりは、むしろ「ネット内での発掘能力」なのだ。


炎上する「24時間テレビ」固有の問題

「チャリティー標榜ビジネス」と「一億総ネット評論家時代」という2つが、「24時間テレビ」を炎上させる基本的な要因である。しかし、これは考えてみれば、非常に普遍的な要因でもある。必ずしも「24時間テレビ」だけに当てはまる問題ではない。

無数のチャリティー・コンテンツが存在する中で、なぜ、ここまで「24時間テレビ」が問題視され、各方面からの嫌悪を持たれるのだろうか。

そこには二段階の問題がある。

まず、第一段階は上述したように、「24時間テレビ」が我が国におけるチャリティー番組の代名詞であり、同時に「チャリティー標榜ビジネス」の象徴にもなっているためである。この点に関しては、むしろ、チャリティー標榜番組の先駆けであるがゆえに同情する部分ではある。

マラソン終盤、日本武道館へ入る林家たい平=8月28日、東京都千代田区

しかし近年、「24時間テレビ」がチャリティー・コンテンツの代表として批判されていること以上に炎上が加速し、鎮火しない最大の理由は、次の第二段階目にある。第一段階がチャリティー・コンテンツ全体への嫌悪・批判だとすれば、第二段階は「24時間テレビ」固有の問題だ。

その固有の問題とは、「24時間テレビ」がチャリティー番組ではなく、「障害者を素材にしたバラエティ番組」となっており、しかもそれが視聴者にバレてしまっている、という現実だ。これは、テレビ産業それ自体の地盤沈下、相対的な刺激や影響力の低下によるメディア産業全体の問題でもある。

まず前提として、近年のバリアフリーの意識や社会インフラの盛り上がり、技術的な高まりに伴い、障害を持っている場合でも、ほとんど健常者と変わらない生活ができることも珍しくなくなった。もちろん、パラリンピックなどで、国益を代表して大きく注目されるチャンスも増えてきた。

一方で、パッと見ただけでは障害とは思えない「障害」への理解も深まりつつある。例えば、発達障害や学習障害を持つハリウッドスターや人気タレントなども珍しくはない。しかし、身体障害のような直感的に理解できる障害とは異なり、なかなか理解はされづらい障害だ。

それでも最近ではそういった障害に対する理解も進み、障害が持つ多様性も認められるようになり、障害と健常とは明確に線引きできるものではない、という認識も深まっている。今日、障害とはわかりづらい「グレーゾーン」の部分にこそ、多くの問題や課題が含まれている。

その一方で、テレビという直感的なメディアでは、「分かりやすい=目に見える」インパクトが求められる。「お茶の間・娯楽の王さま」から陥落し、「ながら視聴」が一般化した今日、その状況は一層加速している。テロップや擬音で埋め尽くされたテレビ画面は、音を消しても理解できるような状況だ。油断すれば、スマホやパソコンなど、他のメディアに即座に視線を切り替えられてしまう。

そのような現状を考えるだけでも、直感的ではない、説明を要するような、わかりづらい「グレーゾーン」は扱いづらい。その結果、「24時間テレビ」のようなチャリティー標榜番組でも、「分かりやすい障害」を扱いがちになってしまうことは想像に難くない。

もちろん、扱う場合の内容も、視聴者の関心を釘づけるために、より強いインパクト(=わかりやすさ)を求め、障害者が露骨に「障害と戦う」「障害に苦しむ」姿を描かざるを得なるわけだ。つまり、「見世物小屋」だ。


なぜ足に障害のある少年に富士登山をさせるのか

 足に麻痺を持つ少年に一合目から富士山登頂を目指させるという本年の企画。これは「足に障害を持つ少年が、決死の努力によって富士登頂を果たす」という感動のストーリーを創り出すには、最適な素材なのかもしれない。しかし、「障害克服する」というテーマで、視聴者を啓蒙し、また、障害に苦しむ人たちに勇気を与える目的であれば、必ずしも「足が悪い少年」でなくても良いのではないか、と思う。

目に見えない「心の障害」に苦しむ人でも良いのではないか。苦しみや、克服への努力に貴賎の上下も障害のレベルもないはずだ。しかし、それでは「分かりづらい」。「足が悪い人」が「富士山」という日本で一番高い山に登ることにインパクトがあると考えているからこそ生まれる企画だろう。

 チャリティーマラソン企画なども、そのような「わかりやすさ=視覚的なインパクト」を求めている以外の何物でもない。なぜ、無目的に番組時間中、走りつづける必要があるのか。これは「タレント苦しんでいる場面=感動」の置き換えに過ぎない。

 ランナーとなるタレントたちは、その多くが「チャリティー」とも「福祉」とも「マラソン」とも無関係だ。そこに理由はない。なぜなら、視覚的なインパクトあるコンテンツという意味しか持たないからだ。

 「24時間テレビ」に限った話ではないのであろうが、ここで重要なことは、現在の「24時間テレビ」の作り手が、「チャリティー番組」という本来の意義や意味は、何も考えていない/考えられていない、というリアルでシビアな現実を理解することであるように感じる。

同番組がチャリティー番組としての成長する過程で、いつの間にやら、「チャリティー標榜ビジネス」となり、今日ではもはや「障害者を素材にしたバラエティ番組」へとメルトダウンしている。

 そうなれば、作り手たちは、常日頃作っているバラエティ番組と同様に、「より過激に」「よりくだらなく」「インパクト重視」で企画を練り、作る。そこに、チャリティー番組としての細かい検証などほとんどない。なぜなら、「障害者を素材にしたバラエティ番組」なのだから。残念ながら現場レベルでは、日々に仕事に追われ、番組スタート当初の志や意義などはほとんど継承されていないだろう。

 例えばオリエンタルラジオの「パーフェクトヒューマン」をダウン症の少女と躍るという企画も同様だ。歌詞の内容とダウン症という症状があまりに乖離しているといった批判があるが、客観的に考えて、制作者が、意図的に障害者を笑い者にしようとして、あるいは批判を覚悟の過激企画として「パーフェクトヒューマン」を選んだとは考えづらい。

話題の「PERFECT HUMAN」を踊る オリエンタルラジオの中田敦彦ら=東京・文京区

もちろん、内容の不適切さに対する浅はかさは反省すべきだが、作り手はバラエティ番組として良かれと思って単純に「話題のヒット曲」と「障害者」を抱き合わせただけだろう(それはそれでまた別の問題があるのだが)。制作者は、よりインパクトある、話題性がありそうな企画を、放送可能なギリギリのラインで狙っただけなのだろう。その意味では、制作者の狙いは見事に達成している。


チャリティー番組と思うこと自体が問題

よって、「24時間テレビ」をチャリティー番組、福祉の啓蒙番組として認識することにも問題があるのではないか、と筆者は考えている。「障害者を素材にしたバラエティ番組」として捉えれば、あとは出演する人の解釈や倫理的問題、コンプライアンスの問題だ。出る出ない、見る見ないは、当事者の問題である。

 「24時間テレビ」には、多くの障害者の方やその家族、関係者が登場している。無理矢理出演させているわけではないのだから、当事者たちにも「24時間テレビ」には、まだ、出演する意味や意義が見出されている、ということでもある。

 ただし、それらの人たちがみな、「24時間テレビ」の「障害者を素材にしたバラエティ番組」としての実態を理解しているかは、不明だ。放送を見て、驚く場合もあるかもしれない。一方で、「障害者を素材にしたバラエティ番組」を障害者自身が許容し、あるいは楽しみに、そこに意義を見出すこともあるだろう。

 「24時間テレビ」がチャリティー番組ではなく、「バラエティ番組」という認識が広がれば、それはそれでまた新しいバリアフリー番組のあり方も生まれてくるように思う。

スポンサー集めや募金活動のあり方も変わってくるであろうし、これまで積み重ねてきた歴史や経緯、社会的意義も失いかねない大きな問題だろうが、それは日本テレビの都合であって、ほとんどの視聴者には無関係だ。少なくとも、現在のようなチャリティー標榜バラエティによって発生する批判は軽減するように思う。

飯島 愛 ちん Benz Royce

頬を紅く初めて 幼心 そっと抱きしめて❣ よちよちぶらぶらチ~ン

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